2013年2月3日日曜日

日本語を使おう

         ・・・野火

 高島俊男という人の『漢字と日本人』(文春新書)には、漢語と日本語がどんなに異質な言語であるかが詳細に述べられています。それによると、日本語というのは地球上どこにも親戚のいない孤立無縁のことばで、なかでも漢語とは系統は勿論、性格が全く違う言葉だとあります。
 ところが、日本語がまだ充分に発達していない段階で漢語(つまり漢字)が入ってきたために、それまでなかった概念をあらわす抽象的な言葉はすべて漢字を使った。それによって本当なら日本語で表すはずであった抽象的表現が生まれなかったのだというのです。しかしながら、漢語における概念はかならずしも日本人の生活や思想(ものの考えかた)、感情、気分に適合したものでなかったとあります。
 これは私達の日常にしばしば実感することで、日本人は本音で意思を伝えたいときは多少まだるっこくても本来の日本語で話します。漢語を使おうとすると、漢字を脳裏にうかべて選びだしてからでないとお互いにわけがわからないので、さらにまだるっこくなります。
 これは漢語では異音である一字一字が日本語では同書で発音されるためにおこる混乱であるということです。ワープロ・パソコンが普及して漢字変換するのに「かんじ」は漢字でもあれば「感じ」でもあり、「感想」は乾燥、歓送、完走、間奏、換装、観相などなどあって、カンソーといっただけでは即座にこうだとはわかりにくいでしょう。
 会話の場合は前後の状況を判断してどちらかを決めます。本来、言葉は耳で聞くものであるのに、聴覚だけでなく漢字を思いうかべるという視覚もしくは幻覚が必要になるのです。特に明治になって多くの漢熟語が造語されました。これは西洋人の思想を翻訳するための造語で、それによって同音異語の熟語が大量に生まれ、もはや耳で聞いただけでは何を言っているのかわからないという状況になりました。デンセンの電線、伝染。デントーの伝統、電灯。講演などでは文字を言って説明したりするのがよくあります(私立をワタクシリツと言うなど)。
 ところが本に書かれたものには漢字という視覚に訴えるものがあるので、それがよくわかるのです。耳できいてわからず、文字を見てわかるという実にふしぎな言語が今の日本語の実態です。いわば言葉と文が分離した状態なのだといえるかもしれません。
 こういう意味をとらえると、随句は日本語でなければならないことがよくわかります。中国人の思想でも西洋人の思想でもない、日本人の思想表現だから日本語でないといけないのです。そうしてそれは文芸の場だけでなく、日常に意識選択して会話は日本語が主流になっていて、やたら漢語を入れたり漢語脈で話すと親しみのない、独断性の強い言いかたにとられて嫌われます。本音がでていないととられるわけです。文芸は本音であるのが当然で、随句のような短詩型ではなおさらだと思います。

  れいろうと水鳥はつるむ   山頭火

 「麗﨟」という漢字をさけて音をとりました。「つるむ」として「交尾する」とはしませんでした。漢語、漢熟語がすべてノーだというわけではありません。それでなければならない場合は漢語、漢熟語を用いますが、基本的には日本語でおさえていかねば本音がだせないということです。

  何と忙しくさうざうしく蝿はつるむなり   山頭火

 もおなじですね。「騒々しく」を避けました。

  もくもく蚊帳のうちひとり飯喰ふ   山頭火

 もまた、「黙々」とは書きませんでした。漢字を避ける意思でしようか。

  畳をうつろうとんびの影だ   幸生

 「うつろう」という日本語もなつかしくなりました。「移動する」というようなことはしません。

  思いついたようにちょうは花からはなれる   敬雄

 蝶をさけて「ちょう」としてあります。ひらがな、カタカナは仮名と書きますが、いまや仮の名(字)ではなく、日本で生まれた本字というべきもの。胸を張って使いたいものです。高島氏も仮名と書かず「かな」とすべきだと言っておられます。
 ただし、「ちよう」はいまの日本語で、むかしは「てふ」、わたしは更にむかしは「たふ」であったかと想像しています。山頭火は「てふてふ」と書いています。「蝶々」もありますが「てふてふ」が多いです。これも私の小学生のころはこのまま「ちょうちよう」と読まされていました。唱歌には、

   ちょうちょ
   ちようちょ
   莱の葉にとまれ

 とあり、今はチョウチョが普通の発音です。しかしむかしは字のように「てふてふ」と発音していたのでしょう。

  てふてふひらひらいらかを越えた   山頭火

  をとこをなごとてふてふひらひら

  てふてふなかよく花がなんぼでも

  てふてふひらひらおなかがすいた

山頭火で「蝶」は(わたしの記憶では)一句だけ。

  ひらひら蝶はうたへない   山頭火

 ちょっと構えた感じではありませんか。どうも世の中、「てふてふ」が「ちょうちょう」になって感じがだせなくなったように思いますがどうでしょう。日本語の根元の微妙なところです。
 日本語はわかりやすいことばなので、作品もやさしい感じになります。日常の生活や動作を作句するとき、日常語は日本語です。

  ひとつも雲のない干し物はためく   恵子

 「ひとつも・・・ない」という日常のことばが、生活をやさしく包んでいるようです。

  黙っていつまでもまな板を洗っている   としこ

 ここでは「黙々と」などとは言っていません。「黙って」という日本語のひびきでなくてはならないのです。
 日本語の利点の第一はその音感にあります。日本語は他に類例のない一語一語そのものに音感をもつのです。アという音に日本人はこころに響き合う明るいひろびろとした陽気な性格があることを感じました。反対にウという音には陰気な暗いイメージが感じました。意識の外にあっても日本人は大昔からそういう情感をもってことばを使い、育ててきたのです。これは漢語にはない性格で、どうしても漢語では表現できないあるものを含んでいます。高島氏は思想が違うといわれましたが、これを日本人の思想だとしてもいいでしよう。
 これがわからないと随句は果たせません。いくら句を作っても本書が表せないのですから、無駄の積み重ねに終ってしまいます。俳句が自由律になってそれこそ何千という作家がいたでしょうが、成功した人が十人に満たないというのはこのあたりに理由があります。
 難しいことではありません。日常のことを日常のことばで表現することができればそれでいいのです。そこを何か特別のことで扱おうと身構えるので本書が出せないのです。随句の要諦は日本人にかえれということかもしれません。

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