2013年3月2日土曜日

今、なぜ『八重の桜』や『おしん』なのか?

         ・・・そねだ ゆ

 NHKで、今年になって『八重の桜』や『おしん』のリバイバル放送です。
 労組支配のNHKで、やっと近時の日本の綻びに危機感を持ったということでしょうか。
 児をいじめ殺す親、親を見捨てる子ら、集団でいじめる生徒ら、たかがゲーム代欲しさに人を殺す若者、働ける体なのに職に就かず生活保護を享受する人達、何でもないことに傷ついたと言って引き籠る人達、などなど。
 戦争で死んでいった人たちやゼロの日本から、仕事も選ばず好き嫌いなど考えずに働きづくめで日本の今日の平和と繁栄を築いてきた人たちには、豊かな時代に甘やかされて育った人達が、わがまま放題で自分勝手で先も考えていないように見えます。これでは労働人口は減り国家税収は減るのに、支えられる高齢者は増えるばかりです。えり好みしない仕事でも自分に学ぶ姿勢があれば、いろんなことを学ぶことができますし、工夫を楽しめば、上にひきたてられますし、より働きがいのある仕事が付いてきます。第一、本当に自分ではどうしようもなくて困っている人を救うために、本来自立できる人がその人たちの分を余計に働いて税金を納めなければ、この日本は奪うだけの人間になってしまうと自分は思っています。
 流石に、NHKも政府批判ばかりしても仕方ないとやっとNHKの役割を思い出したように思えます。

 動物は、生れると数時間で歩きはじめますし、自分で餌をとるようになります。ところがヒトは一人前になるのに何十年もかかります。おまけに自立した大人になると面倒なので、いつまでも親に頼る人間がいます。しかしその人たちもやがて自分ではどうしようもない状態に陥った時に、誰に頼るというのでしょうか。この原理に早く気が付くものが自分自身の人生を生きたと満足できるのだと自分は思っています。私は、道が安易な道と困難な道に分れた時に、困難な道を選んで来ました。それで、どんな困難なことが起きても乗り越えることができました。私は、好きなことしかしないで来ました。そして、どんなことでも好きになって楽しくやって来られました。人生で出会う全てが楽しかったのです。
 八重もおしんも人が「自立」するために信念と努力が必要だという姿を描くドラマです。こんな当たり前の自立について、人に言われなければ、自分で気が付かない時代になったのでしょうか。

 婚家の跡取りの父が戦死したことから母は自立して働きながら子を育てました。だから私は、試験を受けて特別育英資金を借りて高校・大学の教育費や小遣いを賄いましたし、社会に出て働き出しても給与の10%を小遣いとし、残りと賞与を家に入れました。これは結婚しても同じです。年金生活になって初めて、給付金が安いこともあってその比率は増えましたが。

 今の自立したがらない世代、戦後米式の影響を強く受けた家庭教育や日教組教育で育った世代は、自我だけは妙に肥大化して俺様化とか女帝化していて、なかなか人の言うことを素直に学ぶことが無くなったようにみえます。人類が繁栄できたのは、他の動物ではできなかった、先人の知恵を積み重ねることができたからで、自分だけで生きて行けると思うのは甘えか自我による錯覚です。

 そこで、自由律です。教師をやっている句友が自由律なのだから、どんな表現でも自由だと言うのです。
 それじゃ自由詩との区別が無くなり、自由律俳句という区分の定義は何なのよ?と私は思うのです。オリンピックでも体操とかフィギュアスケートでも規定と自由演技というのがありますが、自由だからと言ってマットの上やリンクの外には出ることはできません。基本的なところは他と区別するための何かの枠があり、枠が嫌いなら「自由詩」という分野があるのですから、そちらでやればよいことです。

 もちろんアートには、既存の考えやあり方を破壊して新しいものを作ることが無ければなりません。しかし壊すには、既存のどこが問題だから壊すという革新的考えの下にやるべきで、随句の深みも学ばないで、未熟な考えで作る作品で、自由だからといわれても説得力を持つわけはないと自分は思います。
 第一、広義の詩である随句も、心の感動を表現しないで、頭でひねくったり、未熟なものの見方や小賢しい小手先の表現で詠んだものが、はたして読み手の心にピタッとおさまる作品になるのでしょうか?
 まずは、自分のものの考え方や見方を深めるために、多くの書籍や人の話に学び、自分を見つめる哲学を磨くことだろうと私は思います。何もしないで生れつきの幼いものの見方や考え方で、それが相手の心を動かすことができると、なぜ思い上がることができるのでしょうか。それこそが甘えと錯覚だと自分は思います。
 俳句は、存問の文学です、また座の文学とも言われるように、感動が相手の心に響かなければ意味が無いということになります。この点で新しい旧いはないのです。響き方がこれまでにない心の琴線に触れる作品が出れば、それこそが新しい作品や作風というのではないでしょうか。

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