2013年3月3日日曜日

「つづれ草子」を読んで思ったこと

         ・・・そねだ ゆ

昨日の「産経抄」に次の記事があった。

〈昨日の「正論」で、村上和雄氏(筑波大名誉教授)が「大発見はナイトサイエンスの産物」「科学にも感性が必要」と説いておられる。何事にもヒラメキが大切であるとのこと、うれしくなって思わず膝をたたいた〉

随句の主張は「感性のひらめき」である。わたしもうれしくなったが、膝をたたくこともなかった。最近、こうしたヒラメキに注目した言われ方が結構目に付くのである。そろそろ、何が根本なのかが問われる環境になったかと思う。

 野火(つづれ草子 15年10月23日)


 私は、科学者ですが、絵を描きます。引退後絵描きとしてやれるかを試すのが夢です。若い時は、いかに人に認められるかに気を取られ、絵を描く事ができない事が多かったのですが、還暦過ぎてやっと肩の力を抜く事ができるようになったような気がします。
 日本画は、世界から見ますと芸術には入っていません。俳句は最短の詩として世界に広まっているようです。広義の詩の中に俳句は入るのでしょうか?
 グローバルスタンダードに合うものなのでしょうか。自分も詩を作るので考えてみました。
 詩は自分(の心)を謳う。自由律句は人間(の心)を詠う。といえなくないでしょうか。シューリアリスムの絵を描く時、オートマチズムという方法があります。心に浮かぶものを理性(頭)の制限を受けないようにしてそのまま描いてしまう方法です。

 また、ダウン症など知的障害者の方々の内とても素晴らしい絵を描く方々がいてこれを芸術家の一人として世に認めさせて自立させる仕組みを作りたいと微力をつくしておりますが、彼らの絵や詩はむちゃくちゃ良いのです。ひとは大人になるに従って理性の制限を受けてつまらない絵しか描けなくなるのに、プロでさえ一生かかっても達しない無我の境地に産まれながらに達していて、その感性と表現力は羨ましい限りです。彼らの絵や詩を脳幹で描く絵や詩だという方もいます。少なくとも前頭葉で描いているわけではないと思います。

 絵画や詩は先ず自分があり、それに共感する人を選びますが、自由律句は読む聞く方が、心の中で「こんな感じあるよな」と思える人間の根底にある心に嵌る感じを詠んだものであることと個性あるつかみ方や独創的表現がなければ心に残らないという一見して矛盾するものです。でもこれって全ての芸術に共通していると思います。
 絵画や小説にもダダイズムやアンチロマンのような反芸術運動がありますから、自由律俳句にも感性俳句運動があってもよろしいのではないでしょうか。それが芸術として人の心に嵌って残ってゆくかは別の問題と思います。

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